牧野富太郎3

 万葉集巻七の中に

吾がやどに生ふる土針心ゆも想はぬ人の衣に摺らゆな

という歌があるが、この歌によみ込んであるツチハリという植物は果して何んであろうか。従来学者によりてその実物の考えがまちまちになっていて、ある学者はこれをエンレイソウ(ユリ科)ならんといい、ある学者はヤクモソウ一名メハジキ(クチビルバナ科)であろうといい、またある学者はそれはツクバネソウ(ユリ科)であるといっていて、今はこのツクバネソウをそれに充るのがまず通説の様になっている。そしてその根拠とする所は彼の源順の『倭名類聚鈔』に王孫を都知波利(ツチハリ)と書いてあるによってである。
従来我邦の学者は支那で王孫という草を我がツクバネソウに充てていれど、これは疑もなく妄断であって王孫は決してツクバネソウその者ではなく、これは全く我が日本には産せぬ別の草である。世間の学者達は今尚依然として小野蘭山の『本草綱目啓蒙』などの旧説を信じ、これに準拠して書いていれど、最早進歩せる今日の知識から観ると同書漢名の充て方(アイデンチフィケーション)などは間違っているものが多く、それをそのまま用うるとなると、トンダ間違と混乱とを惹き起す事になる。彼の大槻先生の『大言海』なども植物に関してはこの旧説の中に漂うている辞書の一つである。

 この花は、種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。そしてその花形、花色、雌雄蕊の機能は種子を作る花の構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂して繁殖する。)
 植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れた子孫を継ぐ根源であるからである。この根源があればこそ、植物の種属は絶えることがなく地球の存する限り続くであろう。そしてこの種子を保護しているものが、果実である。
 草でも木でも最も勇敢に自分の子孫を継ぎ、自分の種属を絶やさぬことに全力を注いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっして絶滅することがない。これは動物も同じことであり、人間も同じことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおり草木と同様、わが種属を後代へ伝えて断やさせぬためであって、別に特別な意味はない。子を生まなければ種属はついに絶えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属の中継ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。