牧野富太郎

 野山へ行くとあけびというものに出会う。秋の景物の一つでそれが秋になって一番目につくのは、食われる果実がその時期に熟するからである。田舎の子供は栗の笑うこの時分によく山に行き、かつて見覚えおいた藪でこれを採り嬉々として喜び食っている。東京付近で言えば、かの筑波山とか高尾山とかへ行けば、その季節には必ず山路でその地の人が山採りのその実を売っている。実の形が太く色が人眼をひく紫なものであるから、通る人にはだれにも気が付く。都会の人々には珍しいのでおみやげに買っていく。
 紫の皮の中に軟らかい白い果肉があって甘く佳い味である。だが肉中にたくさんな黒い種子があって、食う時それがすこぶる煩わしい。
 中の果肉を食ったあとの果皮、それは厚ぼったい柔らかな皮、この皮を捨てるのは勿体ないとでも思ったのか、ところによればこれを油でいため、それへ味をつけて食膳に供する。昨年の秋箱根芦の湯の旅館紀伊の国屋でそうして味わわせてくれた。すこぶる風流な感じがした。
 今日でもそうかも知らんが、今からおよそ百年ほど前にはその実の皮を薬材として薬屋で売っていた。それは肉袋子という面白い名で。

 この草は冬はその葉が枯れて春に旧根から萌出し、夏秋に繁茂する。根茎は横臥し分枝し、葉は跨状式をなして出で、剣状広線形で尖り鮮緑色を呈して平滑である。葉中に緑茎を抽いて直立し一、二葉を互生し、茎頂に二鞘苞ありて苞中に三花を有し、毎日一花ずつ開く。花は美麗な紫色で外側の大きな三片は萼で、それが花弁状を呈し、その間に上に立っている狭い三片が真正の花弁である。萼片の柄の内側に一つの雄蕋があるから、つまり雄蕋は一花に三つあるわけだ。そしてその葯は白色で外方に向かって開裂し花粉を吐くのである。中央に一花柱があって三つに分れ、その枝は萼片の上により添うて葯を覆い、その末端に二裂片があってその外方基部のところに柱頭がある。この花は虫媒花であるから昆虫によって媒助せられ、雄花の花粉を虫が柱頭へ付けてくれる。そして子房は花の下にあっていわゆる下位子房をなし、花後に果実となりついにそれが開裂して種子を放出し、枯れた実は依然として立っている。カキツバタは紫花品がふつうであるが、またシロカキツバタという白花品もあれば、またワシノオと呼ぶ白地へ紫の斑入り品もある。そして本種は同属中で最もゆかしい優雅な風情を持っていて、その点はまったく同属中他品のおよぶところではない。さればこそ昔から歌や俳句などで決してこれを見逃していないのは、尤もなことだと思われる。

 アヲギリは此の様に生え易く亦容易に生長して太り易いから若しも人があつてアヲギリの林を造りたければ其れは造作もなく出来る、が、然かし其んな物好きな事を為た人はなかろう、国によつては今日アヲギリの自然的と成つてゐる林を天然記念物として保護してゐるが、此等は実は我邦神代からのものではなくてズット後ちに出来た林である、元来此アヲギリは我邦固有な土産植物ではなく是れは或る時代に支那から来た者である、そして海辺附近の地が彼等には適処と見えて其んな処に能く生活し繁茂してゐる、若しも其処に一本のアヲギリがあれば其実の種子に依つて其近傍に其れが殖え行くことは訳のない事である、故に其林を作るも亦何等の面倒はない、然るに此んな生え易いものであるに拘はらず、又種子も風で撒布せられ易いものであるに関はらず、之れが日本全国的に山地に拡がらないのは、元来本品は土産植物でないから何にか其処に具合の悪い原因があるのではない乎と考へられる、それでなければ此アヲギリが日本へ這入つて来た後大分の年数も閲て来てゐるのであるから疾に全国的(人の栽植したものは別として)に拡がらねばならん理窟だのに
 アヲギリは普通に庭木となつてゐる事は誰れもの見てゐる通りであるが、此樹の皮は繊維質で舟の綱に造る事が出来、水には頗る強いと謂はれる、又其種子は炒りて食用になる